厩戸皇子の父・橘豊日大王は、新大王としての即位式である大嘗祭を終えた直後、流行病の天然痘に倒れ、祈りもむなしく崩御した。
用明天皇としてわずか二年の短い在位であったが、大王として初めて仏教信仰を表明した意義は大きかった。
天下を狙う蘇我馬子は物部を討つ決意を固める。
「この血を流さねば歴史は前へ進まぬのか…」苦悩する厩戸皇子も戦場に立つ。
仏教公認をめぐっての物部対蘇我の権力争いは、蘇我の勝利に終わった。
戦場で地獄を見た厩戸皇子は、この光景に目をつぶり彼岸の悟りを願っていても意味はない、地上で力を手に入れ仏法を実践しなくては、と心に誓う。
最高権力者となった馬子は、抜け目のない策略により泊瀬部皇子を次の大王に決め、自らの野望のため、娘たちを使って次々と手を打ち始めた。
馬子は自分の娘たちを次々と皇子に輿入れさせる。
河上郎女を泊瀬部大王に、志紀郎女を竹田皇子に、そして、快活な刀自古郎女を厩戸皇子にと画策する。
このままでは馬子に大王家を操られてしまう、警戒する厩戸皇子だったが、生まれて初めて心を動かされた女性・刀自古郎女と、親しかった竹田皇子の遺言に従い、姉である菟道貝鮹皇子を妃にすることが決まった。
厩戸皇子と刀自古郎女の間には待望の皇子が生まれ、喜びに包まれた。
しかし、厩戸皇子をとりまく情勢はますます緊迫していた。
泊瀬部大王は物部守屋の姪にあたる布都姫を妃に迎え、馬子へ対抗の姿勢を強めていた。
公の場での泊瀬部大王の発言を契機に、事態を重く見た馬子は大王の暗殺へと動く。
こうして日本史上初の臣下における天皇の暗殺が進められた。
西暦592年、日本における最初の女性天皇である推古女帝が即位し、厩戸皇子は正式な皇太子となった。
全ての民の幸福を実現するという高い理想をかかげ、次々にその基盤をかため手腕を発揮していく厩戸皇子を、いつの頃からか人々は聖徳太子と呼ぶようになっていた。
千数百年もの昔、日出づるこの国に、近代国家の礎を作りあげた偉大な若き皇太子がいた――。
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